第20回、小説好きのための読書会レポート!

 八月に入り夏本番、花火大会、蝉時雨。強い日差しと汗玉と、若い血潮が騒ぎだす。淡い想いも陽炎のように、たとえ一夏の夢とわかっていようとも、この一瞬は命の欠片。焦げるような熱い記憶とともに、あの日の感情よ永遠なれ。 

 夏というと様々な物語が頭のなかに浮かびます。青春や恋愛において夏というのは持ってこいの季節ですね。あるいはホラーやSFもどことなく夏を彷彿とさせてくれます。読書の秋、という言葉をよく耳にしますが、むしろ夏こそ読書の季節ではないでしょうか? 某出版社も毎年夏フェス的な企画やってますからね、間違いないです。外は暑いので空調の整った室内にこもって、のんびりゆったり読書ライフで今年の夏も乗り切りましょう。とはいっても夏はイベントがたくさんあります。外に飛び出して自分だけの物語を作るのも良いかもしれませんね。皆さまが思い思いの素敵な夏を過ごせることを願っております。

  ってな訳で、どうもレポート係コウイチです。ぼくはこの夏、人生で初めての経験をさせて頂きました。生涯で一度あるかないかの経験です。それは何かというと「友人代表スピーチ」です。友人の結婚式に出席し、しかも友人を代表して列席者の晒し者になるアレです。

  ぼくは男な訳で、つまり新郎側のスピーチな訳で。結婚式というおめでたい席における、新郎側の友人代表スピーチの役割といえば、笑いですよね(個人の意見)。主役は友人といえど、列席している方々は友人の職場関係の人たちだったり、親族や親戚だったり、もちろん新婦側の関係者も多数多数おられて、ぼくの知らない人たちの視線にさらされながらの笑いを伴ったスピーチ。難易度高めです。 

 当日はド緊張で膝が震え、なにかメモを書いていったという訳でもないので、考えた内容を飛ばさないように結婚式の進行中、ずっと頭の中でスピーチを繰り返していました。おかげで前半のことあんまり覚えていないんですよね。もし皆さまのなかで、友人代表スピーチをする機会がございましたら、ぜひしっかりとメモなり手紙なりを事前に書くことをオススメします。まぁ当たり前のことですね…。ちなみにぼくのスピーチ、主役である友人にいわせると「なんだかんだ良いスピーチだった」だそうで、最低限の仕事はできたのかなと、胸を撫で下ろしました。 

 さて8月4日に第20回小説好きのための読書会が開催されました。お越しくださった皆さま、ありがとうございます。場所は渋谷「TIME SHARING」さん。34名もの方々に集まって頂きました。
 5~6人のグループに別れて自己紹介からのスタートです。今回の自己紹介トークは「子供の頃の夏の思い出」子供の頃の夏といえば夏休み。思い出の宝庫ですよね。皆さまどんな思い出がありますか? ぼくは増水した川で溺れたことを覚えています。人生の教訓ですね。子供は遊びのなかで学び、成長していくものです。だからもう二度と増水した川では泳ぎません。

  自己紹介が終われば小説の紹介が始まります。自分が好きな小説について、どこが好きなのか、なにが好きなのか、思う存分語り尽くしてください。小説の面白さを好き勝手に喋って、ずっと聞いてくれる友人は周りにいらっしゃるでしょうか? ぼくはこの読書会に参加するまでいませんでした。日頃自分のなかにだけ溜め込んだ情熱を、一気に爆発させましょう! 

 何を紹介すればいいのかわからない? そんな心配はご無用です。なんでもいいのです。好きだという気持ちさえあれば。毎回様々なジャンルの小説が紹介されております。国内、海外問わず。SF、ミステリ、恋愛小説。純文学でも大衆文学でも。言わずと知れた名作から、影に隠れていた良作まで。あなたの一冊を教えてください。 

 小説の紹介はグループを入れ換えて二回行います。同じ小説を紹介しても良し、違う小説を紹介しても良し。精根尽きるまで魅力を伝えてください。他の人の話を聞くのもまた面白いです。紹介される小説を知っていれば「それな~」ってなるし、知らない小説が紹介されたら「まじか~」ってなります。ヤバい、そろそろ書くの疲れてきて語彙力が…。

  二次会は近くの居酒屋に移動して二時間程度の飲み会となるのですが、ここでも疲れ知らずに喋りまくります。なにをそんなに喋ることがあるんだろう? ってぐらいです。次の日なに喋ってたっけ? ってなるぐらいです。お気をつけください。 


第20回小説が好き!の会で紹介された小説の一覧




 では最後に8月11日に行われた漫画会について少し触れておきます。「小説が好き!の会」ですが、主催のダイチさんが、やっぱり漫画も好き! ってことで、漫画会を開催しました。詳しくは、ダイチさんによる「第一回漫画が好き!の会レポート」をご覧ください。 

 ダイチさんと同じくぼくも漫画が好きなのですが、残念ながらこの度は地元へ帰省していたため参加できませんでした。悔しいので参加できたら紹介しようと思っていた漫画をここで紹介しておきます。 


「ヨシノズイカラ」ヨシノサツキ(ガンガンコミック)  



 五島列島を舞台に若き書道家の先生が、島の子供たちとともに成長するハートフルストーリー「ばらかもん」で、一躍脚光を浴びたヨシノサツキ先生による新作です。 

 舞台は「ばらかもん」と同じく五島列島。主人公は書道家から漫画家へと変わり、まだ単行本は1巻しか刊行されていませんが、前作同様にへたれ主人公と陽気な五島列島の相性が抜群。今後がとても楽しみな一冊です。 



 

 「あゝ、我らがミャオ将軍」原作・構成:まつだこうた/作画:もりちか
 


 父であるジョー・チョビロフの急死を受け、世襲制で齢9歳の少女ミャオ・チョビロフが、コルドナ社会主義共和国の指導者となった。 他国に対し強硬姿勢を取っていたコルドナだったが、これを期に平和路線へと舵をとることに。 独裁系少女のドタバタ政治劇!
 個人的にイチオシのギャグ漫画です。こちらも単行本はまだ1巻のみ。おそらく世界一「粛清」という単語が出てくる漫画。コルドナ万歳!! 

  次回の漫画会はかならず参戦します。


 ここからはレポート係コウイチによる小説パートです。 

 今回の小説はとある新人賞に応募し、落選した作品となります。どこがダメだったのか教えてください。よろしくお願いします。



「真夏の陽炎に夢をみる」


8月13日〈現在〉 


 年老いた電車の車窓からは、どこまでも田畑が広がっていた。高い建物はなく、遥かにそびえる山々の稜線までも、色鮮やかに窓枠に縁取られている。都会の街並みに目が慣れてしまうと、この風景からは現実味を感じられない。まるで遠い日の夢でもみているかのように俺の目には映った。景色は次々に後方へとながれ、一度として同じ表情をみせることはなかった。 

「まもなく清岳、清岳。お出口は左側です」 

 車内アナウンスが懐かしい駅名を告げる。車体が停車し扉が開くと、けたたましい蝉の鳴き声とともにむっとした熱気が身体を包む。俺はあまりの暑さに躊躇いつつ、古びたホームに降り立った。
 真夏の日差しは地面を焼いていた。ホームのアスファルト上に陽炎が揺らめいている。そこらじゅうに夏の匂いが立ち込めていた。

  下車したのは俺だけ。車内にも俺を含め数人しかいなかった。たった2両編成のワンマン電車を見送ると一気に視界が開ける。吹く風に木々は揺れ、草花がなびく。白雲は彼方上空を駆け抜けて、地上に淡い陰りを落としている。木造の寂れた無人駅は相も変わらずいまにも朽ち果てそうだ。 

 荷物の詰まった重いバッグを肩に担ぎ直すと、ボロボロの歩道橋を使い駅舎側へと移動する。長旅の疲れからか、足取りはすこし重く首筋にはじっとりとした汗が流れた。 

 駅舎のなかへと入る。日差しから逃れ、緩やかな風が身体の熱をさらう。 

「おかえり、兄ちゃん」 

 無人のはずの駅舎のベンチに、日に焼けた精悍な顔があった。俺はその声に片手を挙げて答える。
 ちょうど一年ぶりに会う弟の祐二は顎髭を生やし、見違えるほど大人の顔をしていた。今年で祐二も22だ、いつまでも子供な訳がないと理解はしているものの、俺にとってはいつまでも4つ年下のガキだった。 

「遅かったなぁ、実家の場所を忘れてんのかと思ったわ」 

 年に一度しか帰らない俺に、皮肉めいたことをいって祐二は笑う。その笑顔のなかにはまだ幼さが見え隠れしていて、俺もつられて笑ってしまった。 

 祐二はベンチから立ち上がると「ちょっと痩せた?」なんて、生意気なことをいいつつ手を差し出してくる。俺はその手にバッグを渡しながら、昔は俺の方が遥かに大きかったのになぁと、幼かった祐二の姿を思い出していた。 

 祐二につれられるようにして駅舎を出た。駅舎のそとには小さなロータリーと右手に駐輪場がある。駅前の通りには申し訳程度に居酒屋とスナックがあるだけで、あとは民家が立ち並ぶばかりだ。
 祐二は駅まで歩いてきたという、つまりは同じ道を歩いて帰ることを意味する。実家まで歩くと一時間近く掛かるのだが、たまには良いだろ? と俺の荷物を担ぎながらいわれると、それも悪くないような気がしてきた。 

「あそこのコンビニ寄ってく? 昔はよく行ってただろ、あのおばちゃん店員まだいるんだぜ」「ここのラーメン屋、最近できたばかりなんだ。前はカレー屋、その前は喫茶店。その前は……なんだっけ? 兄ちゃん覚えてる?」「そういえば佳奈のやつもちょうど帰ってきてるんだぜ。あの佳奈が髪を伸ばし始めたんだ、笑っちゃったよ。ちょっと会いに行ってみるか?」 

 祐二と何気ない話をしながら俺は町並みをみていた。こんなにもゆっくりとこの町の姿をみて歩くなんていつぶりだろうか。 

 しばらく歩いていると小学校がみえてきた、俺たちも通っていた学校だ。夏休みの校舎には生徒の姿はない。 

「この校舎も古くなったよな。たしか兄ちゃんが入学した年に建て替えたんだったっけ?」

  無人の校舎を横目にみていると、祐二がおもむろにポケットからタバコを取り出して咥えた。

  俺が訝しむ視線を向けると、ライターで火をつけようとしていた手を止めて祐二も顔をしかめる。 

「なんだよ、兄ちゃんだって前は吸ってただろ? 吸いたいなら一本やるよ」 

 差し出されたパッケージはピーススーパーライト。四年前まで俺が吸っていた銘柄と同じものだった。 

 一本受け取り、慣れた手つきで火をつける。ゆっくりと吸い込むと葉がジリジリと燃え、ピースの甘い煙が肺へと流れた。細く長く紫煙を吐く。小学校の目の前で弟とタバコを吸っているなんてなんだか変な気分だ。 

「兄ちゃん、はやくいこうぜ」 

 校舎をぼんやりと見上げていると、先に歩きだしていた祐二に呼ばれた。俺は踵を返し祐二のもとへと向かった。 

 二人してタバコを咥え、幾度となく歩いた道をまた歩いている。 

 すべてが懐かしい、でもどこか違っている。そんな小さな変化と時の流れを感じながら、俺はかつての家路をたどった。


        ○   ○   ○   ○   ○
 


 おれは兄ちゃんが嫌いだった。成績優秀、スポーツ万能、ルックスだって悪くない。ガキの頃は憧れもしたが、高校生にもなると遠すぎる背中に嫉妬した。なにをやるにも兄ちゃんと比べられる。

 天才的な兄、平々凡々の弟。平凡なおれがいくら足掻いたところで、才能の差ってやつは埋められるもんじゃない。


       ○   ○   ○   ○   ○


8月13日〈四年前〉


  長い坂の上におれの家は建っていた。 

 高校からの帰り道、汗を垂らしながら自転車で登りきると、親父と兄ちゃんが庭で焚き火をしていた。犬小屋の方では、柴犬のコロ助が舌を出して暑そうにこちらをみている。真夏のクソ暑いなか親父たちはなにやってんだと思っていたが、迎え火というものらしい。盆に先祖を迎え入れるためのアレだ。 

 小学生の頃はじいちゃんとやっていた記憶があるが、中学に上がった頃から部活だったり遊んでたりしてこの光景を目にすることはなかった。「ご先祖様が帰る家を見失わないように火を焚くんだ」そういっていたじいちゃんも、いまや迎え入れられるご先祖様となってしまった。 

「よう、祐二。久しぶり」 

 おれに気づいた兄ちゃんは、軽く片手を挙げて口元を綻ばせる。おれもつられるようにして手を挙げて返した。 

 自転車を降りてシャツの袖口で汗をぬぐっていると「珍しいな、佳奈ちゃんは一緒じゃなかったのか?」などといって、兄ちゃんはポケットからタバコを取り出していた。ガキの頃ならまだしも、近くに住んでいるからといって、いつも佳奈と一緒に帰ってくる謂れはない。高校三年となったおれだが、兄ちゃんのなかではいつまでも年下の弟でしかないのだ。 

「聞いたぞ。お前、真面目に夏期講習行ってんだってな」 

「ああ、まあね。県予選の敗戦投手は、勉強ぐらいしかやることなんてねぇからな」

  兄ちゃんのときは甲子園準優勝だったよなっていう皮肉はたぶん届いていない。 

 おれの高校は兄ちゃんの代から三年連続で甲子園に出場していた。それまではまったくの弱小校だったが、いまや県内でも屈指の強豪校。三年前の活躍にほだされ、県内の野球の上手いやつらが勝手に集まってくる常勝軍団となっている。甲子園出場なんて通過点にすぎないはずだった。 

 なのにおれの代で連続出場記録はストップ。周囲の期待を裏切り、甲子園の土を踏むこともなくおれの夏は一足先に終わってしまった。 

 悔しいが、兄ちゃんたちのときは本当に凄かった。富川第一、藤巻東、仙道育英。並み居る強豪校をなぎ倒し、甲子園決勝までぐんぐん進んでいくのだ。当時の新聞の一面には「脅威のダークホース!」だったり「県勢58年ぶりの快挙!」なんて文字がチームの写真とともにでかでかと載っていた。 

 おれの言葉を別の意味で捉えたのか、兄ちゃんは眉をハの字に下げ肩をすくめた。

 「そんな下卑たいい方するなよ。県予選だって祐二はエースとして最後まで投げきったんだ。俺はキャッチャー、どう頑張ってもピッチャーにはなれなかったんだから」 

 チームキャプテンを務めたうえに、打撃では5割をこえる活躍をしといて、これが慰めになっているとでも思っているのだろうか……。兄ちゃんの言葉は、おれの耳には嫌味としか聞こえない。 

 野球だけでなく頭も良かった兄ちゃんは、四年前に東京の有名な大学へと進学した。しかしなにをとち狂ったのか、昨年突然中退して漫画家を目指している。 

 がっちりとしていた筋肉は衰え、いまは病的なまでに痩せこけていた。毎年盆休みにしか地元には帰ってこず、しかも実家ですら漫画を描いているのだ。 

 一度だけ『エースMAGAZINE』という 月刊誌に兄ちゃんが描いた読み切りが掲載されたことがあった。だけどそれだけで飯が食えるほど甘くないってことは、高校生のおれでもわかる。甲子園で全国を沸かせたスターも、いまや貧乏なフリーターだ。 

 迎え火を兄ちゃんに任せて、親父は玄関へと戻っていく。玄関先にある散歩用のリードを取ってすぐにまた顔を出すと、のんびりとした足取りで犬小屋へと歩いていった。それをみたコロ助が暑さも忘れて跳び跳ねる。早く散歩に連れていけと催促しているのだ。 

「あいつはいつまでも元気だな」 

 今年で14歳となる老犬を見詰め、兄ちゃんはタバコに火をつけた。 

 昔は親父のタバコの煙を煙たがっていたくせに、いまは自分も吸っている。かつての兄といまの兄とを比べてしまうと、なぜだかどうもイライラしてしまう。 

「兄ちゃんの漫画、全然雑誌に載らねぇじゃん。ちゃんと描いてんのか?」 

 兄ちゃんは夕空に紫煙を吹きかけ、細く尖ったあごを動かす。

「ああ、描いてるよ」

  わかりきっていた回答を聞くと、夏の暑さが増したように感じた。散歩に出かけた親父とコロ助の後ろ姿を目で追いながら、またタバコに口をつける。 

「だけどまだまだだな、俺は自分に才能があると思いこんでいたらしい」 

「そうかよ……」 

 兄ちゃんに才能がないだと? ……じゃあおれにはなにがあるっていうんだ。
 漫画なんてものにうつつを抜かしてなければ、なんだってできたはずだ。野球でプロにだって、兄ちゃんになら夢じゃなかった。クソ田舎の貧乏農家で育った少年が、プロ野球選手になるなんて、それこそ漫画みたいなシンデレラストーリーだ。 

 夕日が沈み山入端を紅く燃やしていた。蝉の鳴き声がうるさくて舌打ちをする。兄ちゃんがタバコの灰を指先で器用に落としている。おれは自転車を押して車庫へと向かった。坂のしたの方からコロ助の鳴き声が聞こえた気がした。 

 車庫に自転車を停めていると、初めて兄ちゃんがタバコを吸っている姿をみたときのことを思い出した。 

 去年の盆休み、実家で漫画のネームを描きながらタバコを咥えていた姿。兄ちゃんにタバコというイメージが全然なかったから、かなり驚いた記憶がある。 

「な、なにタバコ吸ってんだよ兄ちゃん!」 

 たしかに二十歳を過ぎていたから、法に触れているわけでもなかったが、おれにはそれだけ衝撃的だったのだ。 

 兄ちゃんは顔を上げ振り返ると、真っ黒なクマのできた目元をたゆませ笑う。

 「命燃やしてんだよ」 

 そのとき描いていた漫画のキャラクターのセリフをそのままいって、背中を丸め続きを描き始めるのだった。 

 自転車に鍵をかけて、車庫から出る。兄ちゃんはさっきと同じ場所で、燃え尽きようとしている迎え火を朧気な瞳でみていた。すぐそこにいるはずなのに夕日の逆光でその姿が黒くみえて、ずっと遠くにいるようだ。 

 そんな姿に一瞥をくれ、おれは玄関へと向かう。 

 空は徐々に暗くなっていく。この時間が嫌いだった。太陽が燃え尽きてなくなっていくような気がしてならなかった。いずれは消えてしまう炎のように、最後はすべて灰へと変わる。1日の終わりもおれのなかでは大差ない。 

 高校までの兄ちゃんはおれの目からみても燃えていた。文武両道の鏡のような、おれなんか兄ちゃんの足元にも及ばない存在だった。 

 それがいまはどうだ、大学で野球をするわけでもなく、大学を中退までして漫画家になるなんて世迷言をいっている。高校時代に兄ちゃんのなかの炎はすでに燃え尽きて、灰になってしまったのではないだろうかと思った。 

「祐二!」家のなかへと入ろうとしていたところを呼び止められた。 

 携帯灰皿でタバコを揉み消しながらおれの方をみている。 

「いま描いてる漫画で、絶対に連載枠取ってやるからな」 

 兄ちゃんの顔は暗く影が落ちていて表情まではよくわからなかったが、おれの瞳をしっかりと見据えるその視線だけはひしひしと感じた。 

 取ってやるから、だからなんだというんだ。報われない努力をひたすらに続け、いずれ徒労に終わる時間だけが過ぎていく。バカな生き方をしている兄ちゃんの姿は、苛立ちを通り越して滑稽だった。 

「ああ、楽しみにしてるよ」 

 鼻で笑い、ただなげやりな言葉で返すと、兄ちゃんは満足したように頷き、タバコのパッケージからまた一本摘まみ出して咥える。 

 おれは家へとそのまま入り、風呂へと向かった。ベタつく汗を熱いシャワーで早く洗い流してしまいたかった。


       ○   ○   ○   ○   ○
 


 嘘みたいな青空が広がって、太陽が晒された肌を焼いていた。欄干を乗り越え、俺は橋の縁に立っている。眼下に流れている川は、照りつける陽射しをあつめ輝いていた。橋から水面までは6、7メートルほど。しかし碧に深く澄んだ水は、川底まで明瞭に写しその距離をより遠くに感じさせる。
 真夏の景色に鳴りひびく蝉の鳴き声のただなかで、俺の足はすくみ震えていた。欄干を握る手が汗ばみ、いまにも滑りそうだった。中学の友達はみんな無理だと諦め、欄干を再び乗り越え戻っていく。 

 川岸で手を振る祐二の姿がみえる。隣には不安げにこちらを見上げる佳奈ちゃんもいた。まだ小学生のくせに、俺と川遊びに行くといってついてきたのだった。

  俺の心情も知らず、祐二は満面の笑みを浮かべている。唾を呑み込む音がやけにはっきりと聞こえた。 

「兄ちゃーんっ! 兄ちゃんなら飛べるよーーッ!!」

  蝉の声に負けることなく届く、そのバカでかい声を合図に、 

 俺は飛んだ。 


        ○   ○   ○   ○   ○


8月14日〈現在〉 

「──ちゃん、兄ちゃん」 

 目覚めると祐二が俺を揺すっていた。どこか懐かしい夢でもみていた気がするが、祐二の顔をみると、その記憶もどこかへいってしまう。俺はまだ寝ぼけている目をこすって起き上がる。 

「温泉に行こうぜ」一年ぶりに実家に帰った翌日だというのに、起きたばかりの俺にそんなことをいう。

  抗議の視線を送ると、気にする様子もなく笑っていた。 

「青井山温泉だよ、昔はよく行ってただろ?」 

 時刻を確認するとまだ8時にもなっていない。俺が時計をみていることに気づいたらしく、祐二は俺の視線上に身体を滑り込ませ時計を隠す。 

「朝から温泉ってのも、悪いもんじゃないぜ」 

 そう祐二にいわれてしまうと、たしかに悪くないような気がしてくるのだから困りものだ。 

 タオルや着替えなどの準備を済ませそとに出ると、祐二がすでにSUZUKIのエブリイを玄関先にまわしていた。 

 真夏の茹だるような暑さに抗って車に乗り込むと、車中はもっと暑かった。 

「冷房がまだ効いてないんだ、走り出したらすぐ涼しくなるさ」 

 額に汗の玉を作りながらいう祐二に、俺はため息をついた。 

 出発してしばらくすると冷房の涼しい風が車内を満たしていった。青井山温泉はとろみのある良質な泉質の天然温泉だ。山中にあり豊かな自然のなかで露天風呂を楽しめると地元では有名だった。
 実家から車で30分とかからない場所にあるためか、昔はよく親父に連れられて行ったものだ。 

 祐二が運転するエブリイは、曲がりくねった山道をターボエンジンを唸らせてぐんぐん登っていく。 

 荒っぽい走行に助手席に乗っていながら思わずブレーキを踏もうと足が動いたりもしたが、祐二の方はというと俺のそんな反応を面白がっている節がある。 

「ビビりすぎだよ兄ちゃん。大丈夫だって、これでもおれは無事故無違反なんだぜ」 

 両足を踏ん張る俺を横目に祐二は歯をみせて笑いながら、緩やかな上り坂でアクセルを踏み込んだ。


  熱い湯に身体を沈めると無意識のうちに声が出てしまう。ごつごつとした岩に背を預け、足を伸ばす。家にある小さな浴槽ではまずこんなことはできない。 

 視界に広がるのは雲一つない青空と、木々に覆われた緑豊かな山の姿だった。風呂の近くに桜の木が伸びていて、青葉が光を透かし揺れている。渓谷に面していることもあり、川のせせらぎが耳に心地良い。普段はうるさいだけの蝉の鳴き声さえ、いまは無くてはならないもののように感じた。 

 静謐の本当の意味とはこのことだと思った。枝葉の擦れ合う音が、川のせせらぎが、蝉の鳴き声が、音という音が背景となっていく。 

「な、来て良かっただろ?」 

 隣に座り目を細める祐二が気持ち良さそうに身体を反らしながらいう。

  手のひらで腕を撫でる。泉質のおかげですべすべとした肌が指先を滑らせた。 

 事故らなくて良かったよ、なんて皮肉めいたことでもいおうと思ったが、無粋だなと思いやめた。代わりの言葉を探してみたものの、祐二のその問いに言葉はいらないと思った。 

 祐二もそれ以上なにも聞かない。ただこの極楽のなかに身を委ねている。 

 湯から身体を引き上げ、背凭れにしていた岩に腰かける。じんわりと火照った身体の熱を緩やかな風がさらっていった。

  祐二も俺を真似て岩に腰かけると、ふぅと一息をついた。 

「なぁ、兄ちゃん……」 

 不意に声をかけられ祐二をみると、湯に沈んだままの自分の足を見下ろしている。足で湯面を揺らし、次に続く言葉を探しているようだった。 

 一分ほどだろうか、ずっと俯いていた祐二はゆっくりと顔を上げ、俺の両目を見詰めた。 

「おれ、漫画家を目指してみようと思うんだ」 

 その瞳は決意と不安に揺れているような、そんな気がした。 

「いまは兄ちゃんほど上手い絵は描けないかもしれない、でも兄ちゃんの部屋にあった沢山の漫画を読んでいてスゲェって思った。おれも描いてみたいって、あのときの兄ちゃんの気持ちがわかった気がするんだよ。あー、くっそ。なんでもっと早く気付けなかったんだろな」 

 驚きでなにも言葉が出なかった。楽しそうに目を輝かせ自分の手のひらを見詰めて話す祐二の横顔に、当時の自分の姿がすこし重なった気がした。 

「それにさ、おれが頑張って上手くいけば、兄ちゃんの夢の続きをみせてやれるかもしれないだろ?」

 俺は反射的に口をすこし開いただけで、言葉なんて一つも出てこなかった。夢の続き。俺にとってそれは想像以上に魅力的だったのかもしれない。とうに諦めがついていたと思っていたが、妙にそわそわと心を擽る。かつて連載枠を勝ち取ったときの情熱がいまだに心のどこかで燻っているような気がした。

「おれもさぁ、みてみたいんだよ。野球や大学を辞めてまで兄ちゃんが固執していたなにかを、情熱を向けられるものを。そしてその先になにがあるのかを、おれは知りたいんだ」 

 祐二が俺にどんな言葉を求めて、このことを打ち明けたのかわからなかった。祐二の選んだ進路を応援してほしかったのか、あるいは反対してほしかったのか。 

 そんなに甘い世界じゃない、その世界に身を置いた俺自身が一番よくわかっている。しかし本当にそれが祐二の夢だというのなら、兄として応援してやりたいという気持ちも、また本物だった。 

 考えのまとまらない頭で、なにか言わなければと言葉を探していると、祐二は俺から視線をはずし山の方へと向けた。 

「あ、電車が通るよ」 

 耳をすませばたしかに線路を踏む音が聞こえてくる。大自然のなかにその音は調和し、安らぎさえ与えた。前方の山中に伸びる線路を電車が走っているのだ。 

 木々の隙間からチラチラとみえるその車体に、俺も視線を持っていかれてしまう。電車が過ぎ去ったときには、なにを口にしようとしていたのか忘れてしまっていた。祐二はこの話は終わったとばかりに、冷めてしまった身体を再び温泉の湯のなかへと沈める。 

 夢の続き、か。口のなかだけで呟いて、俺も祐二を真似て肩まで湯に浸かるのだった。


       ○   ○   ○   ○   ○
 


 月刊誌に載った兄ちゃんの読み切りをおれは読んでいなかった。今後また載るようなことがあっても、読むことはないと思う。 

 ただその読み切りの評価があまりよくなかったということは知っている。最低な弟かも知れないが、それを知ったおれは、嬉しくて笑った。 


        ○   ○   ○   ○   ○


8月15日〈四年前〉
 


 兄ちゃんの帰省中、おれはずっとイライラしていた。夏の暑さにも蝉の鳴き声にも、好きなバラエティー番組をみているときでさえ、兄ちゃんが視界にはいるだけで苛立った。 

 夏休みに行われる夏期講習に出席するために高校へと自転車を走らせる。朝っぱらから気温は30度をゆうに越え、高校につく頃にはシャツが汗で背中に張りついていた。 

 舌打ちをしながら階段を上り、教室へはいると冷房の涼しさに身体が弛緩する。教室のいつもの席に座り、下敷きを団扇がわりにして扇ぐ。 

 一息ついてノートやペンケースを準備していると、幼なじみの椎葉佳奈が教室に入ってくるなり近寄ってきた。いままで部活にでも行っていたのだろうか、ショートカットの黒髪が汗で乱れている。すでに引退した身だというのにご苦労なことだ。 

「ねえねえ祐くん、いまお兄さん帰ってきてるんでしょ?」 

 シャツとスカートをパタパタと揺らして風を送り込んでいる。あつ~いとかなんとかいいながら、おれの前の席に座った。おれの方を向いて、だ。 

 股を開いて背凭れを両腿で挟むようにするその姿は、とても女だとは思えない。

 絡むのも面倒だとシカトしていたら、頬を膨らませおれの机に腕を乗せてきた。 

「ねえってば、お兄さん帰ってきてるんでしょ?」 

 彼女の腕の汗がノートの端をしっとりと湿らせる。 

「ちっ──帰ってきてたらなんだよ」 

「ぅえ、なんだってことはないけど……」 

 クソっ、イライラする。学校にきてまでも兄ちゃんはおれを苛立たせるらしい。 

「漫画家さんになって初めて帰ってきたんだもん、そりゃあ気にはなるよ」 

「一回だけ読み切りが載っただけだろ。漫画だけじゃ食っていけてねぇんだ、漫画家じゃねぇよ」 

「なんでそんなこというのさ、読み切りが載っただけでも凄いよ。才能あるってことじゃん。それにこれからどんどん売れっ子になるかもしれないでしょ? いまのうちにサイン貰いに行っちゃおうかなぁ」 

 佳奈は顎肘をついて気持ち悪いにやけ面を晒す。 

 なにがサインだ。くだらない。足が勝手に貧乏揺すりを始めた。 

「才能なんてないだろ、あったらとっくに連載してる。漫画なんかより野球の方が断然才能あったよ」 

「まあ野球も凄かったよね。チームのキャプテンで甲子園準優勝しちゃうんだもん、あのときは私も興奮したなぁ」 

 兄ちゃんに影響を受けて高校ではソフトボールを始めた佳奈は、バットを構えるような仕草をとって目を輝かせる。 

 おれはその佳奈らしい身振りに呆れながら、バッグから教科書を取り出した。 

「あのまま野球続けてたらプロにだってなれたかもしれないのに、兄ちゃんはホントバカだよな……」 

 そうだよねぇ、とか間抜けな返事が返ってくるかと思っていたが、佳奈はなにもいわなかった。彼女をみると悲痛そうな表情をたたえおれをみている。 

「……なんだよ」おれは手を止めて視線を返す。 

 佳奈にそんな目でみられていると、胸の辺りがぐわんとして居心地が悪くなった。 

「だから、なんでそんなこというの?」 

「いや、正論だろ。おれは兄ちゃんを認めてんだよ、野球の才能はあったって」

  肩も強かった、配球選びも上手い、なによりバッティングが並外れだった。おれにはできないようなことでも、兄ちゃんは難なくこなしてみせるのだ。 

「違うよ、私はそんなこといってない」
「は? じゃあなんなんだよ」 

 要領を得ない佳奈に俺はため息を漏らす。 

「祐くんがいってるのって全部嫉妬じゃん」 

「嫉妬? 意味わかんねぇ、なんでおれがいまの兄ちゃんに嫉妬すんだよ」 

 プロ野球の道を捨てて、漫画家のなり損ないになったやつに嫉妬なんてするわけがない。バカなやつだと、あんな風にはなりたくないと、そう思っている。反面教師としては立派なものだ。 

「だってそうじゃん。自分が欲しかった才能を持ってるのに、その才能を生かさずに別の道を選んだお兄さんにイラついてるんでしょ? 自分ができないからって、自分の夢をお兄さんに勝手に託して、裏切られたとでも思ってるの?」 

「そんなわけ──」 

「──ない?」 

 言葉が詰まった。いまになって佳奈が怒っているんだとわかった。 

 おれが兄ちゃんに嫉妬している? おれが自分の夢を兄ちゃんに託した? そんなわけがない。そんなわけはないはずなのに、言葉としては最後まで出なかった。 

 たしかに、思ったことは、ある。兄ちゃんがプロ野球で活躍している姿を、想像したことはある。
 テレビで、ときには球場で、おれはいうのだ。 

『あの選手、おれの兄ちゃんなんだぜ。スゲェだろ?』と。 

 子供のころから比べられていた。天才的な兄と、平々凡々の弟。だったらせめて自慢ぐらいしたいじゃないか、おれの兄ちゃんはスゲェんだって、周りのやつらにいってやりたいじゃないか。

「自分の思い通りにいかないからって、夢に向かって一生懸命に頑張ってる人を、笑って心から応援してやれないなんてダサすぎ。そんな人が自分の夢なんて叶えられるわけがないじゃん」 

「──っ……」 

 身を乗り出して訴えてくる佳奈に、おれは歯噛みして睨みつけるのが精一杯だった。 

「なにもいい返せないんだね。人として最低だよ、いまの祐くん」 

 佳奈はバンッと机を叩いて立ち上がると、前へ向き直り椅子に座った。

 その音に反応したクラスのやつらが、何事かとおれたちの方をみている。佳奈のシャツは汗で湿っていて、背中にブラジャーの紐が透けてみえていた。 

 クソビッチめ、舌打ちにそんな言葉を乗せて放ち、おれは出したばかりの教科書やノートをバッグに詰め直して席を立つ。 

 教室を出てクソ暑い廊下を早足で歩いた。教室を出るときに佳奈の視線を感じたが、おれは振り返らなかった。

  靴を履き替えそとへ出る。駐輪場から自転車を乱暴に引きずり出して、さっき通ってきたばかりの道を全力で引き返した。 

 真っ直ぐに伸びる山越えのバイパスを立ちこぎで駆け上る。

 「クソがぁぁ」 

 疲労と暑さで喉はかすれ、おれの叫びは次々と追い越していく車の走行音に掻き消されていく。


 家に帰ると兄ちゃんは自室で漫画を描いていた。蒸し風呂みたいな室内なのに冷房も付けず、背中を丸めて机にかじりついている。おれも兄ちゃんも汗だくだ。 

 ノックもせずに部屋に入ったのだが、まったく気がついていないようだった。 

 おれがこの兄ちゃんに嫉妬している? 悔しいが佳奈のいっていたことは当たっているのかもしれない。だが、百歩譲ってそれを認めたからといって、漫画家の道を応援してやるなんてクソ食らえだ。漫画なんかより野球の方が才能があった、その事実はずっと近くでみてきたおれが一番よくわかってる。 

 ずっと憧れて、羨ましくて、大っ嫌いだった兄ちゃん。

  おれの兄ちゃんは、凄い兄ちゃんじゃないと駄目なんだ。だってそうだろ、ずっと比べられていたんだ、兄ちゃんが凄いやつじゃなけりゃ、おれは一体なんなんだよ。兄ちゃんは凄い、こんな貧乏なフリーターのままで居ていい人じゃないんだ。 

 おれはリモコンを取って冷房をつけた。クーラーが作動し、冷たい風を吐き出す。しばらく使われていなかったせいか、すこしカビ臭いにおいが混じっていた。 

 声をかけようとも思ったが、そのままじっとみていることにした。一段落ついたら、兄ちゃんの方からおれの存在に気がつくだろう。 

 おれはベッドに腰掛け、兄ちゃんの背中をみる。かつて必死に追いかけていた背中は随分と小さくなってしまったものだ。 

 バッターボックスに立っていた兄ちゃんの姿はいまでも鮮明に思い出せる。どんな点差で負けていたとしても、兄ちゃんがそこに立つだけで逆転できるような気がしていた。 

 なんで漫画なんだよ……。 

 何度考えてみてもそう思ってしまう。 

 ふと部屋を見渡すと本棚には漫画がぎっしりと詰まっている。使い込まれてボロボロになってしまった野球道具たちは部屋の片隅へと追いやられ埃をかぶっているというのに。 

 そういえば子供のころはよく漫画を読んでいた。おれは漫画よりもゲームに夢中になっていたが、兄ちゃんは漫画ばかり読んでいた記憶がある。 

 落書きみたいな四コマ漫画を作ったりしていて、たしかおれもみせて貰ったんだ。遠い昔過ぎてどんな内容だったとか、面白かったかなんて全然覚えていないが。 

 ぼんやりと兄ちゃんの背中をみていたら、一人でいろいろと考えてしまう。こんなに痩せてまで、年に一度の帰省のときでさえ漫画を描いている。どうしてここまで漫画に固執できるのか、情熱を向けられるのかがわからない。おれにはわからないが、兄ちゃんの見据えるその先に、おれにはみえないなにかがあるのではないかと思う自分がいた。もしかしたらいまの兄ちゃんは、高校のとき以上に燃えているんじゃないか? そんな思考が頭をよぎる。 

 途中でタバコに火をつけようとした兄ちゃんがおれに気がついた。 

「おおっ……祐二か、びっくりした」 

「いや、普通部屋に入ってきた時点で気づくだろ」 

「描いてたからな……」 

 兄ちゃんはタバコを咥え、ライターで火をつける。一口吸うごとにタバコの先がジリジリと燃えた。紫煙が細く天井まで伸びていた。 

「なあ兄ちゃん」 

「ん?」 

「なんで野球辞めたんだよ」 

「ん? どうしたんだよ急に」 

 突然の質問に兄ちゃんは困った顔をしている。正直おれも自分がこんなことを聞くなんて思っていなかった。なんというか、考えるよりも先に言葉が出てしまっていた。 

「まあ理由なんてどうでもいいんだけどさ」 

「祐二、お前熱でもあんのか?」 

「ねぇよ」 

 やっぱり腹が立つ。しかしもうこうなったら最後までいってやろうと思った。いいたかったことなんて山ほどあるんだ。 

 大きく息を吸い込み、長く吐き出した。タバコの臭いがしてまたイラついた。 

「おれは兄ちゃんに野球を続けて欲しかったよ。プロだって目指せるって本気で思ってた。すくなくとも漫画なんかより絶対にそっちの方が才能あるって、いまでもそう思ってる。野球やらないんならその才能おれにくれよって思うし、なんでそんな才能あるのに野球やらねぇんだってムカついてたんだよ」 

 野球を辞めると初めて聞いたときは心底驚いた。おれだけじゃない、おれと同じようにずっと兄ちゃんに憧れを抱いていた佳奈だって、「本気でいってるんですか?」と食い下がったものだ。 

 あの頃、誰よりも表立って不満を洩らしていた佳奈を思い出す。ことあるごとに「もったいない」とか「なんでなの?」とおれに愚痴をいっていた。そんな佳奈にいまはおれが、目を覚ませとビンタを喰らったような気分でいる。 

「だけどさ、もういいよ」 

 そう、終わってしまったことだ。兄ちゃんはもう野球をやらない。おれがなにをいったって漫画を描き続けるんだ。 

「その代わり、漫画で有名になってくれよ。さっさと連載枠ぶん取ってめちゃくちゃ売れる漫画描いてくれよ。野球じゃなくて漫画で良かったって、おれに思わせるくらいに、スゲェ兄ちゃんでいてくれよ。おれ、兄ちゃんはなんだってできるって、ずっと昔から思ってるんだからさ」 

 兄ちゃんは終始驚いていたが、やがて微笑んだ。ネクストバッターズサークルからバッターボックスへと向かうときの、自信に満ち溢れた頼もしい笑みだった。 

「バカ野郎が、当たり前だろ。この前いったじゃねぇか、連載なんてもうすぐだよ」

  兄ちゃんは灰皿にタバコの灰を落とし、机に向かいペンを握り直す。 

「俺はお前の兄ちゃんだぞ」 

 そういってタバコの先端を赤く燃やすと、背中を丸めて漫画を描き始める。おれは兄ちゃんのベッドに寝転がった。汗がシーツに染み込んでしまうとも思ったが、兄ちゃんなら許してくれる。冷房で涼しくなった部屋の空気が、熱くなったおれの身体を冷やしていく。なにをすることもなく、紙上を走るペンの音をずっと聞いていた。 


       ○   ○   ○   ○   ○


 火葬場から昇る煙をみて、兄ちゃんのいっていた言葉を思い出した。 

 命燃やしてんだよ──あの言葉は比喩とかじゃなしに、そのままの意味だったんじゃないかと、いまになって想う。 

 本当に命を燃やして、漫画を描いていた。そして最後まで燃え尽きてしまった。 

 残っていた燃料を、一気に燃やしてしまう原因を作ったのは、間違いなく──おれだ。 


       ○   ○   ○   ○   ○ 


 8月16日〈現在〉 


 今日の夕方には帰らなければならない。

 俺は昼頃に目を覚ますと、家のなかを一部屋ずつみて回った。親父とお袋の寝室、祐二の部屋、ばあちゃんの部屋、客間にリビング、トイレや風呂までも、俺がかつて過ごし生活した空間をすべて。 

 室内を見終わると玄関からそとに出る。瓦葺きの屋根にコチドリが一羽とまっている。去年塗り替えたばかりという壁は、まだ新しいクリーム色をしていて綺麗だった。 

 平屋の5LDK、広い庭のある日本家屋。都会の一等地ならば金持ちの家かもしれないが、田舎で代々農家として生計を立てていれば、このぐらいは普通の家だ。安い土地だけは無駄にあっても、収入は人並み。いや、市場の買値が安い年は人並み以下となる。 

 台風などの災害で農作物に被害がでれば、収入はゼロ。それどころか設備投資に莫大な金が消えてなくなる。そんな不安定な家計のなかで親父たちは、もっといえば先祖たちは、家族を養ってきたのだ。 

 まったく、たいしたもんだよ。本当に心からそう思う。そんな環境で育ったからだろうか、俺も漫画家なんて先行きのみえない職業に夢をみたんだ。 

 車庫近くにある犬小屋から、コロ助が顔を出している。ゆらゆらと頭を揺らし、辺りを確認しているみたいな仕草だ。 

 今年でたしか18歳だったか。祐二が子供のころに、弟が欲しいと駄々をこねたため、親父が知り合いから仔犬を引き取ったのだった。 

 小さく頼りない四肢ですぐに転んでいたため、名前はコロ助。しかし18年経ったいま、両目は白内障で白く濁り、もうほとんどみえていない。声をかけても反応がないのをみると耳もほとんど聞こえていないのだろう。残った嗅覚すらも最近は衰えてきたという。ずっと元気だと思っていたコロ助も、俺のところへとくる日はそう遠くないらしい。 

 俺は近寄ってコロ助の頭を撫でる。急に触れられてビクッと最初は驚いたものの、その後は大人しく気持ち良さそうに目を細めた。来年の盆に、またこうやって生きているこいつを撫でることができるだろうか。 

 お前は長生きだなぁと、すでに死んでしまっている自分への皮肉を込めて呟いた。 

 ──祐二、ちょっと遊びに行かないか? 

 俺が祐二に声をかけたのは、夕方近くになってのことだった。急な誘いに驚いていた祐二だったが「いいよ」と、すぐに車を出してくれる。 

「んで、どこに行きたいんだ?」 

 ハンドルを握る祐二は横目に俺をみていう。車窓から流れゆく景色をぼんやりと眺めていた。時速50キロメートルのスピードで実家から遠ざかってゆくことに寂寞としたものを覚えつつ、俺は口を開いた。

  ──バッティングセンター、かな……。 


       ○   ○   ○   ○   ○
 


 バッターボックスに立っている兄ちゃんをみていると懐かしく思った。バットを構えるフォームも昔と変わらない。 

 百円玉を入れると、18.44メートル先にある投球マシンが作動し始めた。兄ちゃんはすこし腰を落とし顎を引いて先を見据える。投球マシンのバネが跳ねて、120キロの速球が放たれる。兄ちゃんはバットを握りこみ、迫りくる白球めがけてフルスイングした。

  ばすっ。 

 もの悲しい音が鳴る。豪快に空振った兄ちゃんはよろけて尻餅を着いた。 

「落ちぶれたなぁ兄ちゃんも、いくらブランクがあるからって掠りもしないなんて」 

 その間抜けな姿に思わず笑ってしまう。同時にすこし悲しくもあった。あんなに凄かった兄ちゃんが、ストレートとわかりきっている球にバットを当てることさえできないなんて。 

 兄ちゃんはたまたまだといってバットを握り直し構えるが、その後の九球も、空振りやファールばかり。唯一前に飛んだ打球はショボいピッチャーゴロだった。 

「百円玉の無駄遣いだな、いまはおれの方がまだ上手いよ」 

 すこしムッとた兄ちゃんを横目に、おれは入れ替わりで打席に入る。最近は高校のときのように本格的に野球をしているわけでもなかったが、120キロのストレートとわかっていれば──。 

 おれのフルスイングはボールをバットの真芯で捉え、カーンッと爽快な音色を鳴らした。 

 白球は吸い込まれるようにバックネットへと運ばれる。そのままホームランと書かれた板に直撃した。振り返ると目を丸くして驚く兄ちゃんの顔があった。 

「みたかよ兄ちゃん、一球目からホームランだぜ」 

 自慢気にいってやって、次の投球に備える。おれは十球すべてを打ち返しバッターボックスから出た。昔の兄ちゃんならこんなの楽勝だったろ? なんて減らず口も忘れない。 

 ベンチに座っていた兄ちゃんは、自動販売機で買ったのか、缶コーヒーを投げ渡してきた。よく冷えたスチールの缶を首筋に当てながら、おれも隣に腰を下ろす。 

 ──なぁ祐二、本当に漫画家を目指すのか? 

「え? ……ああ、そのつもりだけど」

  急な問いかけにおれは視線が泳いでしまう。なぜだか気まずくなり缶コーヒーに口をつけた。苦いブラックのコーヒーがおれを責め立てているような気がした。さっきまで使っていた120キロのバッターボックスでは、高校生だろうか、青年が小気味良い音を鳴らしている。 

「兄ちゃんは甘い世界じゃないっていいたいんだろ? わかってるさ。でもやってみないとわからない。それにダメだったら親父の跡を継ごうと思ってる。そもそも大学を卒業したら最初から農家を継ごうと思ってたし」

  ──じゃあ、なんで大学なんて行ったんだよ。

 「なんでって……」 

 大学へと進学した理由? そこらの大学生に聞いたって、すぐにスラスラいえるやつなんてすくないはずだ。 

 ──俺に夢の続きをみせるために漫画家を目指すっていってたよな。頼むからそんなことはやめてくれ、俺は弟に自分の夢を押し付けるようなことはしたくない。 

「なんだよ、別に押し付けられてなんか……」 

 おれは戸惑っていた、なぜ兄ちゃんは急にこんなことをいい始めたのか……。 

 ──俺が漫画家を目指していたとき、お前は嫌がっていただろう。 

「そ、そんな、ことは……」 

 ──もし、俺がいまも生きていて漫画家を目指していたとしても、お前は漫画家になりたいと思うか? 

「……」

  おれは完全に言葉を詰まらせてしまった。この無言が兄ちゃんには、質問に対する正確な答えとして聞こえていることだろう。だが、答えとしては間違ってなかった。兄ちゃんがもしいまも生きていたら、おれは漫画家になりたいなんて思わなかったはずだ。 

 しかし、兄ちゃんは死んだんだ。 

「……じゃあ、どうしろっていうんだよ。兄ちゃんを追い詰めたのはおれだ。プレッシャーをかけて、ただでさえ頑張っていた兄ちゃんに鞭を打ったんだ。兄ちゃんを殺したのはおれなんだよ」

  ──お前が俺を殺した? 

「だってそうだろ。おれが早く連載しろなんていわなければ、兄ちゃんが過労死するようなこともなかったはずだ。全部おれのせいなんだ、おれのせいで兄ちゃんは……」 

 自分の夢を掴みかけていた兄ちゃんに、おれがプレッシャーをかけた。そして兄ちゃんは頑張りすぎて死んだんだ。これがおれのせいでなくなんだというのか。兄ちゃんがみるはずだった景色を、代わりにおれが……おれの考えは間違っていないはずだ。 

 ──祐二っ! 

 兄ちゃんはおれの胸ぐらを掴んで引き寄せる。兄ちゃんのこんなにも怒った顔をみたのは初めてだった。 

 ──バカにすんなよ。俺が死んだのはすべて俺のせいだ。なんでそこにお前が出てくるんだよ! 

「違う、おれさえあんなことをいわなければ……兄ちゃんは……。おれにできる償いなんて、こんなことしか……思い、浮かばないんだ……」 

 情けないことに22にもなって、目尻に涙がたまっている。兄ちゃんが死んで、自分自身どうしたらいいのかわからなくなっていた。兄ちゃんのためにできることは、と、自らに罰を、贖罪を求めていた。 

 ──違うんだ、祐二。 

 兄ちゃんは掴んでいた手を放すと、幼子でも慰めるようにして語りかける。 

 ──俺はお前がいたから頑張れたんだ。漫画だけじゃない、野球だってそうだ。 

「……ど、どういうことだよ?」 

 ──お前は昔から器用だったからな、ちょっと教えればなんでもできた。

「それは兄ちゃんのことだろ? 野球だって勉強だっておれは足元にも及ばなかった」 

 天才的な兄、平々凡々の弟。昔からそうだった。おれができないことを、兄ちゃんは当たり前のようにやってのける。いつだって器用で要領がいいのは兄ちゃんの方だ。 

 ──お前のことだよ。 

 兄ちゃんはおれの肩に手を乗せて、まっすぐな眼差しを向けてきていた。そしてすこし疲れたように笑ってため息をつく。 

 ──出来のいい弟を持つと、兄貴は大変なんだぜ? 知らないだろうが、俺がどれだけ野球の練習したと思ってるんだよ。どれだけ勉強したと思ってるんだよ。

「なにいってんだよ。嘘つくなよ」 

 ──お前に嘘なんかつかないよ。 

 兄ちゃんの部屋にあったボロボロの野球道具を思い出す。いくつものノートを思い出す。 

「なんで……そんなこと」

  ──俺はお前の兄貴だからな。 

 兄貴が弟に負けられないだろ? といって兄ちゃんは悪戯っぽく笑った。 

 兄ちゃんは天才なんかじゃなかった? おれが才能だと思っていたものは、すべて努力の賜物だった? 信じられない。でも、さっきの空振りをみたばかりのおれに、すべてを否定できるだけのものはなかった。 

 ──祐二は昔からよくいってたよな、兄ちゃんならできるって。どんな無茶なことでも、純粋な目していわれたら、俺だってやってやろうって躍起になってたんだ。だから全部祐二のお陰だ、野球も、勉強も、漫画だって、な。 

 おれはなんにもわかっちゃいなかった。兄ちゃんには才能がある。そう思いこんで、兄ちゃんの努力になんてなに一つ目を向けてこなかったのだ。

  ──お前、高校の先生になりたいんだろ? 

「え?」唐突だった。なぜそんなことをいうのかわからない。 

 ──お前の部屋で教員免許取得の合格通知をみた。大学に進んだのもそのためなんだろ? 

 いつの間にそんなことをしていたのか知らなかった。おれの考えなんて兄ちゃんにはすべてお見通しのようだ。

 高校で甲子園に行けなかったおれは、どうしても甲子園という夢を諦めきれなかった。高校を卒業した後にでも甲子園に行けるとしたら、それは部活の顧問として行く以外に方法はない。 

「でも……でも兄ちゃんはそれでいいのかよ、おれは兄ちゃんの夢を奪ったんだ。それに家はどうなる、おれが跡を継がなきゃ他にはもう誰もいない」 

 そういうと驚いたことに兄ちゃんは頭を下げていた。 

 ──悪かった。 

「……に、兄ちゃん?」 

 ──俺が死んだことで、祐二にすべての重荷を背負わせてしまった。 

 顔をあげた兄ちゃんは優しく微笑む。 

 ──俺のことなんて気にするな、勝手に死んだバカなやつだって思っとけ。お前に本当の夢があるなら、俺はそれがなんだって全力で応援するぞ。俺だけじゃない、親父やお袋だってきっとそうだ。 

「表面上はな、でも……」 

 兄ちゃんも親父たちも優しいから、どんな反応をするかなんて想像はできる。でも心の底では、おれに農家を継いでもらいたいと思っているはずだ。 

 ──心から思うさ。それが家族ってもんだろ。 

 兄ちゃんは立ち上がり、残っていた缶コーヒーをすべて飲み干した。 

 ──もう自分の夢から逃げるのはやめろよ。俺のためとか、家族のためとか、言い訳ばかりをつけて本当にやりたいことから目を背けるな。 

 おれは兄ちゃんを見上げていた。厳しいことをいっているようで、その言葉には優しさに溢れている。 

 ──夢が叶わなかったときが怖いか? 努力が報われないことが恐ろしいか? お前は昔からそうだった。人一倍器用なくせして、やる前から諦める節がある。 

「兄ちゃん……」兄ちゃんは、ずっとおれを認めていてくれたのだ。 

 ──やればできるというのに、なぜやらない? 

「兄ちゃん……」その言葉はおれがずっと兄ちゃんに対して思っていた言葉だった。

 ──俺は、俺の夢を全力で追いかけた。祐二は祐二の夢を全力で追いかけてみろよ。 

「兄ちゃん……」 

 もう、止まらなかった。 

「兄ちゃん……なんで死んじまったんだよっ!」 

 こんな歳にもなって大泣きするなんて情けない。周りに人がいるにも関わらず、恥ずかしげもなく涙は溢れてくる。 

 ──ごめんな、死んじまって。ごめんな、良い兄貴じゃなくて。 

 兄ちゃんはおれのぐしゃぐしゃになった顔を胸に抱いた。まるでガキの頃みたいに優しく背中を擦ってくれる。

「兄ちゃん、兄ちゃん」 

 おれも兄ちゃんに甘えるようにして背中に手を回した。兄ちゃんにもう時間がないことはわかっている。 

「もっとたくさん話したいことがあったんだ」 

 兄ちゃんは優しく微笑んだ。 

「もっと野球も一緒にしたかったんだ」 

 わかってるとでもいうように、そっと静かに頷いてくれる。 

「おれはずっと兄ちゃんのことが好きだったんだよ。カッコよくて、優しくて、なんでもできる兄ちゃんみたいに、おれもなりたかった」 

 兄ちゃんはよりいっそうおれを強く抱きしめて、わずかに震えた。 

 兄ちゃんの背中を追っていれば、自然と道ができていた。兄ちゃんは先行して、ずっとおれの足元を照らしてくれていたんだ。 

 そんな兄ちゃんがいまはいない。おれは踏み出す一歩先に何があるのかわからずに立ち竦んでいた。 

 否が応でもこれからは自分一人で、暗闇を模索することになる。兄ちゃんから、憧れの人から一人立ちするしかないのだ。 

「兄ちゃん」身体を離し、その暖かな眼差しを見詰める。 

 ──なんだ? 

 柔らかな声音はおれの高ぶった感情を穏やかにしてくれた。 

「おれなんかが、本当に教師になれるかな?」 

 ──当たり前だろ、絶対になれるさ。祐二は俺の弟だぞ。 

 なんの根拠もなく即座に返す兄ちゃん。だけど兄ちゃんにそういわれると、なぜだか本当になれるような気がした。 


       ○   ○   ○   ○   ○
 


 今年も盆が終わった。 

 一人で家に帰ると、親父が送り火を焚いていた。 

 おれは親父の元へ行く。 

「どこ行ってたんだ?」 

「バッティングセンターだよ」 

「一人でか?」 

「……まあね」 

「ふうん」 

「それよりさ、親父」 

「どうした?」 

「おれ、高校の教師になろうと思うんだ」 

 暗闇への第一歩をいま、踏み出した。 


        ○   ○   ○   ○   ○


 好きなものは? って聞かれたら、俺はすぐに漫画だって答えるね。だって面白いじゃん! 

 読んでるだけで、熱くなったり、悲しくなったり。笑えたり、ドキドキしたりする。それに俺の知らないことを沢山教えてくれるんだ。 

 自分でも面白い漫画を描きたくて、試しに描いてみたりもしたけど、やっぱり全然違う。絵も下手だし、ストーリーも面白くない。 

 でも今回は面白いものが描けたんじゃないかと思った。四コマ漫画で、ありきたりな内容かもしれないけど、これまで描いたなかでは一番の出来だ。すぐに誰かにみせたいと思ったけど、お父さんたちはまだ仕事から帰ってきてない。いま家にいるのは祐二くらいだ。まだ小学一年のガキだけど、近くには祐二しかいないのだから仕方ないか。 

「祐二、ちょっとこれ読んでみて」 

 ゲームに夢中になっていた祐二は、すこし不服そうな顔をして俺の漫画を受けとる。人にみせるのなんて初めてだったからか、俺は弟相手なのにドキドキしてしまっていた。 

 読み終わったらしい祐二はバッと顔を上げて俺をみた。 

「面白いよこれっ、兄ちゃんが描いたの? 凄いっ! 将来は絶対に漫画家さんになれるよ!」 

 漫画家? なれるわけがない。絵もストーリーも本物と比べたらまったくのダメダメだ。 

 そうわかってはいながらも、瞳を輝かせながらいう祐二をみていると、本当に漫画家になれるような気がした。 


       ○   ○   ○   ○   ○


「祐くんもう終わったの? 早いなぁ」 

 自分のデスクに突っ伏して、佳奈はおれを羨ましげに見上げてくる。開かれたノートパソコンには、次学期分の授業配分が各クラスごとに割り振られていた。その調整が案外面倒な作業なのだ。 

「じゃあ、また明日な」 

「えー、私が終わるの待っててくれないの~」 

「今日は先約があるんだよ」 

「先約ってなにさぁ、いつもは最後まで付き合ってくれるのに」 

 佳奈は拗ねたように唇を尖らせキーボードをカタカタと打っている。 

「お前には秘密の約束だよ。まあ頑張れ、陰ながら応援してる」 

 手をひらひら振りながら踵を返すと、後ろの方から「表立って応援してよ!」と騒ぐ佳奈の声がした。幸い他の先生方がいないからいいものの、あいつももうすこしは教師としての自覚を持ってもらいたいものだ。頬を膨らませ眉間に皺を寄せる佳奈の姿が、振り返らずともありありと想像できた。 

 涼しい職員室から出ると茹だるような暑さが身を襲う。廊下には生徒の人影もない。学校は夏休みだというのに、おれたち教師は毎日登校しなければならない。想像していた以上に地味な事務仕事が盛りだくさんだ。 

 ポケットから車のキーを取り出すと、一緒になにかを落としてしまった。おれは立ち止まってそれを拾う。ピーススーパーライト。タバコはもう辞めていたが、今日だけは特別な日だ。 

 佳奈を残して先に帰るのも、迎えにいかないといけない人がいるからだった。誰にも教えていない、おれたちだけの大切な約束。 

 年に一度、お盆のときしか帰ってこない。 

 教師となったおれの姿をみて驚くだろうか?  

 おれの方が歳上になったんだ、そのことをからかうのも面白いかもしれない。 

 今年もたくさん、兄ちゃんに話したいことがある。
 
                   

                         了 

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